ディズニー映画『美女と野獣』についての弁護士の解説を見て感じたことです。
イスラム教圏とロシアなどで行われている、『美女と野獣』ボイコットが不当であることをほのめかすのはよいのだけど「ゲイだと言われているけど、実際に見てみて『ちょっと、どこが?(笑)』」というのはよくわかりませんでした。何がどうおかしくて笑えているのだろう。「映画のどこが問題なのかわからない(笑)」というのならよいのだけど「ル・フウはゲイだと言われているけど、別にどこがゲイなのかあからない(笑)」という風にも受け止められる。
実写版『美女と野獣』ではゲイネスをほのめかす場面は確かに量としては少ないけれども、決して一箇所で唐突に示されるわけではないです。ラストシーンのダンスは、「やっぱりね」という感じでオチになってるし、それをバシッと画面の中央に持ってきて見せています。それを見ていながら「どこが(ゲイなの)?」とう意味で「どこが?」言ってしまうのだとしたら、それは鈍いです。
「大人がル・フウが同性愛かどうかの議論をしていて、それは本当に些細な問題で、物語にとっては全く問題ではない。それなのに色眼鏡で親たちが子供に見せないことがあるとすれば、それは子供たちにとって、もったいないこと」
というコメントも上に続いていて、こちらも、結論として「ル・フウがゲイだろうがなんだろうが、別に実質的な悪影響とかはない。ガタガタ言わずに子どもにもどんどん見せようよ」というのであればそれ自体には賛成できるんですけど、前半の感じがやっぱりどこかひっかかる。エンタメ作品の出演者が「同性愛者どうか」というのは決して「些細な問題」ではないとわたしは思ってるんです。そこを「些細な問題」にしてしまうと、「じゃあこれからもずっと出演者全員異性愛者でもいいじゃん、些細な問題じゃん」ってなってしまいそうで。
これまでずーっと「世の中のエンタメの出演者が当然のように異性愛者である」という演出にさらされ続け、慣れきってしまったわたしたちにとって、ル・フウがゲイかどうか?というのは、結構大きな問題だし、だからこそ、そこに希望を見出す人も、上映禁止をするような反応も出てくるわけであって。そこを無視して「いや、セクシャリティのことはよくわかんないけど、よい映画を見ないのはもったいないよ」的なまとめ方にしてしまうのだとしたら、それは一見理解があるようで、実は単に鈍い人ですよね……とか思いました。
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